宝塚歌劇団の歴史に燦然と輝く元月組トップスター・紫吹淳さん。
1968年生まれの彼女は、18年間という長い宝塚生活の中で、ダンスの名手として、そしてミステリアスで個性的な男役として多くのファンを魅了しました。
群馬県出身の少女が、どのようにして宝塚のトップスターまで上り詰めたのか。
若い頃の挫折から始まり、72期生として入団、花組・星組・月組・専科を経て月組トップスターに就任するまでの軌跡、そして相手役の映美くららさんとの関係まで、紫吹淳さんの宝塚時代を包括的に振り返ります。
現在も女優として第一線で活躍する紫吹淳さんの、知られざる宝塚時代のエピソードをたっぷりとお届けします。
若い頃:下積み〜頭角を現すまで
群馬の少女からタカラジェンヌへ
紫吹淳さん(本名:棚澤理佳)は1968年11月19日、群馬県邑楽郡大泉町で生まれました。
足腰の弱さを心配した両親の勧めで3歳からダンスを始めたのが、後の宝塚での活躍につながる第一歩でした。
中学生時代には本格的にクラシックバレエに取り組みましたが、ここで最初の挫折を経験します。
バレエ教室の発表会で白雪姫を踊った際、身長が伸びすぎていることに気づいた紫吹さんは、一度バレエから離れることになります。
しかし「やはりバレエが好き」という気持ちが勝り、再びバレエ教室に通い始めました。
運命的な転機が訪れたのは、バレエ教室の宝塚ファンだった講師からの一言でした。
「宝塚を受けてみては?」この勧めにより、1984年に16歳で宝塚音楽学校を受験し、見事合格を果たします。
花組での下積み時代とダンサーとしての開花
1986年、72期生として宝塚歌劇団に入団した紫吹さんは、入団時の成績は24番。
星組公演「レビュー交響楽」で初舞台を踏みます。
同期には後に星組トップスターとなる香寿たつきさん、女優の真織由季さん、歌手の中条まりさん、現在も専科で活躍する五峰亜季さんなど、粒揃いのメンバーが揃っていました。
同年5月に花組に配属となった紫吹さんは、当初はダンサーとして活躍します。
幼少期から培ったバレエの基礎が宝塚の舞台で花開き、1989年のニューヨーク公演、1994年のロンドン公演にも参加するなど、徐々に頭角を現していきました。
そして1992年、「スパルタカス」の新人公演で念願の初主演を果たします。
これが紫吹さんの男役スターとしてのスタートラインとなりました。
花組時代の代表作には「ベルサイユのばら」「心の旅路」「エデンの東」などがあり、特にダンスシーンでの存在感は群を抜いていました。
男役時代の転機/代表作
組替えを重ねて掴んだトップへの道
紫吹さんのキャリアには、他の多くのタカラジェンヌとは異なる特徴があります。
それは複数の組を経験したことです。
1996年に星組に異動し、翌1997年には月組へ。
月組では当時のトップスター真琴つばささんの2番手として、男役としての技術と表現力をさらに磨きました。
2000年には各組の2番手・3番手と共に専科に異動する「新専科」制度により専科へ。
この時期に経験したベルリン公演での主演は、紫吹さんにとって大きな転機となりました。
海外の舞台で各組の選抜メンバーを率いる経験は、後のトップスター時代の礎となったのです。
月組トップスター就任と代表作の数々
2001年5月、真琴つばささんの後任として月組に復帰し、同年7月に念願の月組トップスターに就任。
相手役には星組から異動してきた映美くららさんが選ばれ、新たな月組時代が幕を開けました。
トップスター時代の代表作として特筆すべきは以下の作品です:
「大海賊-復讐のカリブ海-/ジャズマニア」(2001年)では、17世紀カリブ海を舞台にした海賊エミリオ役でトップコンビお披露目。復讐に燃える青年が海賊として成長していく姿を、紫吹さん独特の男性的な魅力で演じました。
「長い春の果てに」(2002年)は、紫吹さんの極みとも評される作品で、映美くららさんとの息の合った演技が話題となりました。
そして退団公演となった「薔薇の封印-ヴァンパイア・レクイエム-」(2004年)は、永遠の時を生きるヴァンパイアの数奇な運命を4つの時代を巡って描く壮大な物語。
ダンサーである紫吹さんのために「踊るヴァンパイア」として構成された、まさに紫吹淳ショーの集大成でした。
宝塚時代の人気指標(動員・話題性など)
ダンスの名手として確立した地位
紫吹さんの人気を物語るエピソードの一つが、ファンからの差し入れです。
宝塚劇場近くの喫茶店ポニーの「いちごジュース」が毎日大量に届けられ、これがファンの間で「紫吹淳の勝負差し入れ」として定番となっていました。
600円のフローズンタイプのジュースは、夏の暑い時期にぴったりで、宝塚ファンの差し入れ文化の象徴的存在となったのです。
宝塚時代の紫吹さんは「宝塚屈指のダンスの名手」「ミステリアスで個性的な男役」として高く評価されていました。
特に二番手時代の「重厚感のある濃さ」は現在でもファンの間で語り継がれており、「最近あんな重厚感のある二番手さんはいない」との声も聞かれます。
とびきり気障な役どころと悪役への挑戦
紫吹さんの魅力の一つは、とびきり気障な役どころや悪役・敵役を得意としたことです。
ピカレスクの主役も含め、従来の正統派男役とは一線を画す個性的なキャラクターを演じることで、独自のファン層を獲得していました。
宝塚在籍18年間で176公演に出演という数字も、彼女の人気と実力を物語っています。
ニューヨーク、ロンドン、ベルリンという3つの海外公演すべてに参加したことは、宝塚での高い評価の証でもありました。
相手役の関係史(主要コンビの見どころ)
映美くららとの学年差コンビ
紫吹さんのトップスター時代を語る上で欠かせないのが、相手役の映美くららさんとの関係です。
2001年8月のトップコンビ就任時、紫吹さんは入団16年目、映美さんは3年目という大きな学年差がありました。
この学年差は当時としても珍しく、注目を集めました。映美さんは星組の研3という比較的下級生の時期に、紫吹さんの相手役として月組トップ娘役に大抜擢されたのです。
わずか2年3ヶ月でのトップ娘役就任は、異例のスピード出世でした。
コンビとしての絶妙なバランス
初めてコンビを組んだ手ごたえについて、当時のインタビューで二人は「息はぴったり」と語っていました。
紫吹さんの重厚で個性的な男役と、映美さんの清楚で可憐な娘役は絶妙なバランスを生み出し、多くのファンを魅了しました。
特に「大海賊」でのトップコンビお披露目では、海賊エミリオと総督の娘エレーヌの恋愛模様を情熱的に演じ、新生月組の船出にふさわしい公演となりました。
ただし、紫吹さんがベルリン公演に参加することになったため、実際に二人が共演したのは宝塚大劇場公演のみという貴重な記録も残っています。
現在も続く良好な関係
2023年には、紫吹さんのInstagramに久しぶりの映美さんとのツーショットが投稿され、ファンからは「お二人のツーショットを見ることができて幸せ」「お二人の月組大好きでした」などの歓喜のコメントが寄せられました。
退団から約20年が経った現在でも、二人の関係は良好に続いているようです。
映美さんは2015年に結婚し、2017年に男児、2019年に女児を出産。現在は母親業と女優業を両立しながら活動しています。
現役時代の名場面・受賞歴
困難を乗り越えた不屈の精神
紫吹さんの現役時代には、華々しい活躍の影で大きな困難もありました。
宝塚時代に「人生で初めての大ケガ」を経験し、初めてソロで踊るシーンをもらった時に休演することになってしまったのです。
「舞台も休まないといけない。もう私の帰る場所はないんじゃないかと思って」と当時を振り返る紫吹さん。
この挫折が後の成長につながったことは間違いありません。
宝塚18年間で休演したのはこの1度だけという記録も、彼女の強靭な精神力と体調管理の徹底ぶりを物語っています。
退団公演での感動的なフィナーレ
2004年3月21日の東京宝塚劇場千秋楽をもって、紫吹さんは18年間の宝塚生活に終止符を打ちました。
退団公演「薔薇の封印」は小池修一郎氏の作・演出による意欲作で、4つの時代を巡るヴァンパイアの物語を通じて、紫吹さんの多面的な魅力が存分に発揮されました。
「踊るヴァンパイア」として構成されたこの作品は、まさに「壮大な紫吹淳ショー」と評され、彼女のダンス技術の集大成となりました。
退団挨拶では多くのファンが涙し、一つの時代の終わりを惜しみました。
同期の五峰亜季さんが専科から特別出演し、紫吹さんの退団に花を添えたことも、宝塚の絆の深さを物語る美しいエピソードです。
まとめ
紫吹淳さんの宝塚時代は、まさに「努力と才能、そして運命が織りなす物語」でした。
群馬の一少女が宝塚音楽学校に合格し、72期生として入団してから月組トップスターに就任するまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした。
花組・星組・月組・専科という複数の組を経験し、それぞれで異なる学びを得たこと。
ダンスの名手として確固たる地位を築きながらも、大怪我による休演という挫折を乗り越えたこと。
そして映美くららさんとの学年差コンビで新たな月組時代を築き上げたこと。
これらすべての経験が、現在の女優・紫吹淳の礎となっています。
2004年の退団から20年以上が経った現在も、54歳でドラマ初主演を果たすなど、第二のキャリアでも精力的に活動を続けています。
宝塚で培った「ミステリアスで個性的」な魅力は、女優としての紫吹さんにも確実に受け継がれており、今後の更なる活躍にも期待が高まります。
タカラジェンヌとしての18年間は終わりましたが、エンターテイナー・紫吹淳の物語はまだまだ続いていくのです。
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