真琴つばさの出身地は東京都品川区?実家の商売や家族背景まで

宝塚

元宝塚歌劇団月組のトップスターとして絶大な人気を誇り、退団後も舞台やバラエティ番組で活躍を続ける真琴つばささん。

その圧倒的な存在感と親しみやすいキャラクターで多くのファンを魅了していますが、プライベートな部分については謎に包まれている部分も多いのが現実です。

今回は、真琴つばささんの実家や出身地、家族構成について、これまでに公表されている情報をもとに詳しくご紹介します。

品川区で生まれ育った真琴つばささんの知られざる生い立ちや、宝塚入団を巡る家族との感動的なエピソードまで、ファン必見の内容をお届けします。

真琴つばさの出身地は東京都品川区

真琴つばささん(本名:保川真名美)は、1964年11月25日に東京都品川区で生まれました。

品川区といえば、江戸時代から東海道の宿場町として栄えた歴史ある地域で、現在でも下町の情緒と都市部の利便性を併せ持つエリアとして知られています。

真琴つばささんが生まれ育ったのは、品川区の中でも特に北品川エリア。

この地域は旧東海道沿いに位置し、古き良き商店街の雰囲気が残る下町的な場所です。

高台にある上大崎や東五反田などの高級住宅地とは異なり、庶民的で温かみのある街並みが特徴的な地域で育った真琴つばささん。

この環境が、後の彼女の親しみやすい人柄の形成に大きく影響したのかもしれません。

品川区東部の住宅街では、現在でも昔ながらの商店街が健在で、地域住民同士の結びつきも強い地域性があります。

真琴つばささんも幼少期から地元の祭りに参加するなど、地域との深い繋がりを持って成長しました。

特に印象的なエピソードとして、品川の祭りでは珍しくおみこしに太鼓がついており、笛で波の音と風の音を表現する独特な文化があったと語っています。

このような地域の伝統文化に触れながら育った経験は、後の舞台人としての表現力の基礎となったのではないでしょうか。

実家は化粧品店「吉川屋」を経営

真琴つばささんの実家は、旧東海道沿いの商店街で「吉川屋」という化粧品店を営んでいました。

この店は両親が経営する自営業で、真琴つばささんは化粧品店の娘として生まれ育ちました。

後に宝塚で男役として活躍する真琴つばささんにとって、幼い頃から化粧品に囲まれた環境で育ったことは、舞台メイクへの抵抗感がまったくなかったという大きなメリットになったと本人も語っています。

「吉川屋」の存在は、2011年7月10日に放送されたテレビ東京の人気番組「モヤモヤさまぁ~ず2」で全国的に知られることになりました。

番組では、さまぁ~ずと大江麻理子アナウンサーが品川周辺を散策する中で、偶然この化粧品店に立ち寄り、そこが元宝塚の真琴つばささんの実家であることが判明したのです。

興味深いエピソードとして、番組のロケが行われた前日にも真琴つばささん本人が実家を訪れ、店のレイアウトを手伝っていたことが後に明かされています。

これは、真琴つばささんが現在でも実家との関係を大切にし、家族のサポートを続けていることを示すほほえましいエピソードです。

旧東海道沿いという立地は、江戸時代から続く歴史ある商店街の一角であり、地域住民に愛され続けてきた老舗の化粧品店だったことがうかがえます。

化粧品店という職業柄、美容に関する知識や感性も自然と身についていたであろう環境は、後の真琴つばささんの美意識の高さにも影響を与えていると考えられます。

家族構成と幼少期のエピソード

真琴つばささんは一人っ子として、両親と祖母の愛情をたっぷり受けて育ちました。

家族構成は父親、母親、真琴つばささん、そして祖母の4人家族でした。

特に祖母との関係は深く、真琴つばささん自身も「おばあちゃん子だった」と振り返っています。

祖母は当時「品川娘」と呼ばれるほどの美人で、地域でも評判の女性だったそうです。

現在でいえば「ミス品川」のような存在だったと真琴つばささんは表現しており、美人の血筋を受け継いでいることがうかがえます。

一人っ子として家族全員から可愛がられて育った環境は、真琴つばささんの明るく前向きな性格の土台となったのでしょう。

幼少期の真琴つばささんは、地元品川の祭りに積極的に参加する活発な女の子でした。

品川の祭りでは他の地域とは異なる独特な特徴があり、おみこしに太鼓がついて、笛で波の音と風の音を表現するという文化的な背景がありました。

このような地域の伝統行事に参加することで、自然と表現することの楽しさや、人を楽しませることの喜びを学んでいたのかもしれません。

写真を撮られることが苦手だった幼少期の真琴つばささんは、よく膨れた表情を見せていたというエピソードも残っています。

現在の堂々とした舞台姿からは想像できない可愛らしい一面ですが、この頃から既に自分の意思をしっかりと持った子どもだったことが推察されます。

宝塚入団を巡る家族との葛藤

真琴つばささんの人生で最も重要な転機となったのが、宝塚歌劇団への入団でした。

しかし、この道のりは家族の強い反対から始まる困難なものでした。

宝塚への憧れが芽生えたのは小学校時代、親友に誘われて『ベルサイユのばら』を観劇したことがきっかけでした。

しかし、化粧品店を営む両親、特に父親からは「うちの家から芸人を出すことはできない」と強く反対されました。

宝塚音楽学校の受験当日には、両親が仏壇の前で「どうぞ落ちますように」と祈るほどの反対ぶりだったのです。

それでも夢を諦めきれなかった真琴つばささんは、高校時代から密かにアルバイトを始めました。

主な働き先はマクドナルドで、当時の時給は470円という時代でした。

コンビニでも働き、さらには友人の紹介で神社の巫女さんのアルバイトも経験しています。

これらのアルバイトで得たお金は、すべて宝塚受験のためのレッスン代に充てられました。

印象的なエピソードとして、アルバイトで稼いだくしゃくしゃの千円札でお月謝を支払っていた話があります。

他の生徒たちが新札で1万円を支払う中、真琴つばささんは千円札を10枚重ねて支払うことも多く、その状況がとても悲しかったと後に振り返っています。

それでも「これが自分の精いっぱい」という思いで続けていた努力の日々でした。

最終的に宝塚音楽学校への入学金は、叔母が郵便貯金を解約して援助してくれました。

家族の反対がありながらも、親戚の理解と支援を得られたことは、真琴つばささんにとって大きな励みとなったことでしょう。

父親との関係は複雑でした。

宝塚入団時には「お前は自分の夢を叶えたな」と認める言葉をかけてくれたものの、その後は関係に亀裂が生じてしまいました。

それでも父親は密かに真琴つばささんの舞台を観に行き、友人に「マナミの舞台を見に行った」と話していたことが後に明かされています。

また、「マナミはもうお嫁に出したつもりでいる」という言葉からは、娘の独立を認めつつも複雑な心境だった父親の気持ちがうかがえます。

現在の真琴つばさと実家との関係

真琴つばささんの父親は58歳という若さで他界してしまいました。

宝塚入団から3〜4年後のことで、真琴つばささんがトップスターとして大活躍する姿を見ることはできませんでした。

この早すぎる別れは、真琴つばささんにとって長年の心の重荷となっていました。

特に印象深いエピソードとして、退団後に知人から聞いた父親の言葉があります。

車を運転中にかかってきた電話で「お父様は宝塚に行った時に『マナミはもうお嫁に出したつもりでいる』と言っていた」という話を聞いた時、何気ない言葉のはずなのに涙が止まらなくなったそうです。

この瞬間、真琴つばささんは自分が父親のことを十分に考えてこなかったことを痛感したと語っています。

現在の真琴つばささんは独身を貫いており、アビシニアンの雄猫「アビィ」と一緒に暮らしています。

子どもがいない分、アビィを息子のようにかわいがっており、腕の中で眠る姿に母性本能をくすぐられているそうです。

幼少期から実家で猫と生活していた経験があり、動物への愛情は人一倍深いものがあります。

実家との関係は現在も良好で、「モヤモヤさまぁ~ず2」のロケ前日に店のレイアウトを手伝っていたエピソードからも分かるように、家族のサポートを続けています。

出身地である品川への愛着も変わらず持ち続けており、地元の文化や思い出を大切にしている様子がうかがえます。

まとめ

真琴つばささんの実家や出身地について調べてみると、品川区の下町で化粧品店「吉川屋」を営む温かい家庭で育ったことが分かりました。

一人っ子として家族の愛情を受けながらも、宝塚への夢を実現するために家族の反対を押し切り、アルバイトで資金を調達した努力の日々は、多くの人に感動を与える物語です。

父親との複雑な関係や早すぎる別れの経験は、真琴つばささんの人間性に深みを与え、現在の魅力的なキャラクターの源泉となっています。

品川区の旧東海道沿いという歴史ある場所で育まれた人柄と、家族への深い愛情は、ファンにとって真琴つばささんの新たな魅力発見となったのではないでしょうか。

これからも舞台やバラエティ番組での活躍を通じて、多くの人々に感動と笑いを届け続けてほしいと思います。

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