宝塚歌劇団雪組のトップスターとして、圧倒的な存在感で舞台を彩る朝美絢さん。
その美しさと確かな実力で多くのファンを魅了する彼女ですが、現在の輝きの原点は、神奈川県鎌倉市で過ごした高校時代にあります。
ダンス部の部長として仲間を引っ張り、宝塚音楽学校受験に2度挑戦し、友人たちと海辺で青春を謳歌した日々。
今回は、朝美絢さんの高校時代に焦点を当て、トップスターへと続く青春ストーリーをご紹介します。
清泉女学院での学生生活
朝美絢さんが青春時代を過ごしたのは、神奈川県鎌倉市にある清泉女学院中学高等学校です。
カトリック系の中高一貫女子校として知られるこの学校は、高校からの募集を行わない完全中高一貫制。
品格ある教育で知られ、実は宝塚歌劇団員を複数輩出している名門校でもあります。
朝美絢さんの同窓生には、現在同じ雪組で活躍する愛陽みちさん(104期・娘役)や、優帆なぎささん(109期・男役)、元星組トップスターの稔幸さんなど、錚々たるタカラジェンヌが名を連ねています。
2024年には清泉女学院同窓会「ラファエラ・マリア会」主催の宝塚観劇会も開催されるなど、清泉女学院と宝塚の絆は深いものがあります。
海に近い鎌倉という土地柄も、朝美絢さんの感性を育む環境となりました。
幼稚園時代に横浜から鎌倉へ引っ越した朝美絢さんにとって、この街は青春そのものの舞台だったのです。
ダンス部部長としての朝美絢
朝美絢さんの高校時代を語る上で欠かせないのが、ダンス部での活動です。
中学・高校を通じてダンス部に所属した彼女は、高校時代には部長という重要な役割を担いました。
「クラスの人気者」「イケイケな性格」――。
こう評される朝美絢さんは、部長として後輩たちを指導し、チームをまとめ上げるリーダーシップを発揮していました。
さらに、文化祭ではダンス部だけでなく、全体のリーダーとしても活躍。
その明るく積極的な性格は、周囲の人々を自然と引きつけ、今も昔も変わらない朝美絢さんの魅力となっています。
O型の大らかでマイペースな性格と語る朝美絢さんですが、一人っ子として育ちながらも、面倒見の良さとリーダーシップを兼ね備えた人物へと成長していきました。
この高校時代の経験が、後に宝塚歌劇団でも発揮される彼女のチーム力の基礎となったのです。
朝美絢の宝塚受験~2度の挑戦と首席合格
朝美絢さんの高校時代を語る上で、最も重要なエピソードが宝塚音楽学校への受験です。
彼女の道のりは決して平坦ではありませんでした。
中学3年生:初めての挫折
幼少期からクラシックバレエを習い、宝塚のOGが指導するバレエ教室にも通っていた朝美絢さん。
中学3年生で初めて宝塚音楽学校を受験しますが、結果は一次試験で不合格でした。
「これじゃあダメだと目が醒める」「厳しい場所であることを思い知る」――後に朝美絢さんはこう振り返っています。
この挫折は、彼女に宝塚の厳しさと、自分に足りないものを教える重要な経験となりました。
高校1年生:責任を優先した決断
翌年、高校1年生の時、朝美絢さんは受験を見送るという選択をします。
その理由は、ダンス部の部長としての責任でした。
後輩たちを指導する立場として、中途半端な形で部活を離れることはできない――そんな責任感が、この決断の背景にありました。
高校2年生:覚悟の受験と首席合格
そして高校2年生、朝美絢さんは再び宝塚音楽学校の受験に挑みます。
しかし、ここで大きなジレンマに直面しました。
部長として最後の文化祭に出演したい。
けれど、宝塚に合格したら文化祭には出られない――。
朝美絢さんが選んだのは、宝塚受験を優先する道でした。
最後の文化祭は出演を諦め、演出と振付のみを担当。
後輩たちのために裏方として貢献する形を選んだのです。
この決断には、朝美絢さんの宝塚への強い思いと、部員への責任感の両方が表れています。
そして迎えた受験当日。
バレエの試験でたまたま一番前のセンターに配置された朝美絢さんは「きたーっ」という思いで臨みました。
結果は見事合格――それも首席での入学が決まったのです。
自分の番号を見つけた時は「夢のように嬉しかった」と語る朝美絢さん。
2度の挑戦の末に掴んだ栄光でした。
鎌倉の海辺で過ごした青春時代
朝美絢さんの高校時代には、宝塚受験という大きな目標がありましたが、それだけではありません。
友人たちと過ごした何気ない日々こそが、彼女の心に深く刻まれた青春の思い出となっています。
放課後、友達と訪れた鎌倉の海。
夕陽に赤く染まった海を、浜辺に座って眺めながら、たわいもない話をする時間。
制服のまま裸足になって、キャッキャッと騒ぎながら波打ち際で遊ぶ姿。
「私たち、青春しているね」――当時の朝美絢さんたちは、そう笑い合っていたそうです。
2024年のインタビューで、朝美絢さんはこう語っています。
「私のスマホの写真フォルダには、学生時代に撮った、海辺の青春写真が今も残っていて。自分の心や頭が凝り固まりそうになったとき、それを見返すこともあるんですよ」
特に夏の夕暮れの海の景色は、朝美絢さんにとって「ココロの景色」と呼べる特別なもの。
舞台と向き合う中で張り詰めてしまった時、この景色を思い出すと「素の自分」に戻れると言います。
「待って、違う違う。こっちに戻っておいで」――海辺の思い出が、柔らかい自分を呼び起こしてくれるのだそうです。
鎌倉という海沿いの街で過ごした高校時代は、今も朝美絢さんの心の支えとなっているのです。
音楽学校での「花より男子」ごっこ
高校時代から変わらない朝美絢さんの明るく社交的な性格は、宝塚音楽学校に入ってからも健在でした。
音楽学校の寮では、同期4人で「花より男子」のF4ごっこをして遊んでいたというエピソードがあります。
朝美絢さんが演じたのは、もちろんリーダーの道明寺司役。
他のメンバーは、桜木みなとさんが花沢類役、礼真琴さんが西門総二郎役、和城るなさんが美作あきら役でした。
この4人は後に、95期生として宝塚歌劇団で大活躍することになります。
礼真琴さんは星組のトップスターに、桜木みなとさんは月組で活躍、和城るなさんも各組で重要な役を務めました。
そして朝美絢さんは、2024年に雪組トップスターへと上り詰めたのです。
「花より男子」のF4のように華やかで仲の良い4人の姿は、高校時代から培われた朝美絢さんの明るさとリーダーシップの延長線上にありました。
厳しい音楽学校生活の中でも、仲間と笑い合える――そんな朝美絢さんの人柄が表れたエピソードです。
家族の影響と宝塚への運命
朝美絢さんが宝塚を目指すきっかけとなったのは、家族の影響でした。
一人っ子として育った朝美絢さんの祖母と母は、熱心な宝塚ファン。
小学生の時、祖母と母が録画していたテレビ番組を見せてくれたのが、宝塚との最初の出会いでした。
初めて劇場で観劇したのは、1000days劇場での月組公演「螺旋のオルフェ/ノバ・ボサ・ノバ」。
子供ながらに、スーツ姿の男役の格好良さに感動した朝美絢さんは、姿月あさとさんのファンになり、宙組公演をよく観に行くようになります。
そして朝美絢さんは、こう感じるようになりました。
「将来の自分の姿をいろいろ想像してみても、宝塚の舞台に立つ自分しか浮かばない。運命だと思った」――この強い思いが、2度の受験への挑戦を支え、首席合格という結果につながったのです。
興味深いのは、朝美絢さんの芸名の由来です。
「朝美」は本名から取られていますが、「絢」の字は、憧れの俳優・小栗旬さんの芸名の名付け親と同じ方に付けてもらったもの。
小栗旬さんの「旬」から一字をもらう形で「絢」という字が選ばれ、朝美絢さんは舞台姿の参考にも小栗旬さんを意識しているそうです。
小栗旬さんの母親がバレエの先生だったことから、何らかの縁があったと推測されていますが、この偶然も運命的な繋がりを感じさせます。
まとめ:高校時代が育んだトップスターの魅力
朝美絢さんの高校時代は、まさに努力と友情、そして夢への情熱に満ちた青春そのものでした。
清泉女学院でダンス部の部長として後輩を導き、文化祭のリーダーとしてクラスをまとめ、友人たちと鎌倉の海辺で青春を謳歌し、1度の挫折を乗り越えて宝塚音楽学校に首席合格――この時期の全ての経験が、現在の雪組トップスター・朝美絢さんの基礎を築きました。
リーダーシップ、面倒見の良さ、明るく社交的な性格、そして挫折から立ち上がる強さ。
これらは全て、高校時代に培われたものです。
特に注目すべきは、朝美絢さんが今も学生時代の海辺の写真をスマホに保存し、心が凝り固まりそうな時に見返しているという事実です。
トップスターとして重責を担う今も、高校時代の「柔らかい自分」に立ち戻ることで、バランスを保っているのです。
「今も昔も楽しい仲間に恵まれている」――朝美絢さんのこの言葉には、高校時代から変わらない彼女の人柄と、人との繋がりを大切にする姿勢が表れています。
宝塚歌劇団雪組のトップスターとして、これからも多くの人々を魅了し続けるであろう朝美絢さん。
その輝きの原点には、鎌倉の海辺で過ごした青春時代があり、ダンス部の仲間たちと笑い合った日々があり、2度の受験を経て掴んだ夢がありました。
朝美絢さんの高校時代のストーリーは、夢を追う全ての人に勇気を与えてくれる、美しい青春物語なのです。


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