宝塚歌劇団星組のトップスターとして6年間という長期間にわたり、多くのファンを魅了し続けた柚希礼音さん。
退団時には過去最高の12,000人が集まったさよならパレードは、今でも宝塚史に語り継がれています。
そんな彼女の華やかな舞台人生の原点には、愛情深くもユニークな父親の存在がありました。
「つかみが大事なんや」という関西弁の教えから生まれた、宝塚受験での伝説的な「ブリッジ歩き」事件。
朝5時の魚市場通いに高速道路でのラーメン遠征まで、一風変わった愛情表現で娘を育てた父親。
そして、バレリーナを夢見ていた娘の人生を大きく変えた、運命的な一言。
今回は、柚希礼音さんの人生を決定づけた父親との心温まるエピソードの数々をご紹介します。
早すぎる別れの悲しさと、今も受け継がれる父の教えについて、詳しく見ていきましょう。
朝5時の魚市場通い - 愛情表現としてのグルメ体験
大阪市で生まれ育った柚希礼音さんは、父親、母親、4歳年上のお兄さんとの4人家族の末っ子として大切に育てられました。
そんな家族の中でも、特に父親は強烈な個性の持ち主だったようです。
何といっても父親の最大の特徴は、とにかく「グルメ」だったこと。
ただの食いしん坊というレベルを超えて、美味しいもののためなら労を惜しまない、まさに食への探求心に溢れた人だったんです。
その象徴的なエピソードが、朝5時の魚市場通い。
まだ眠い目をこすっている柚希さんを朝5時に叩き起こし、制服を着せて魚市場へ直行。
そこで新鮮なお寿司を食べさせてから、学校まで送り届けるという、なんとも豪快な朝のルーティン。
普通の親なら「朝ごはんはパンでいいでしょ」となるところを、「新鮮な寿司を食べさせてあげよう」と考える発想が、もう普通じゃないですよね。
休日には休日で、今度は高速道路に乗って遠くまでラーメンを食べに行く遠征を敢行。
「美味しいラーメン屋があるらしい」となれば、距離なんて関係なし。
家族みんなでドライブがてら、グルメ冒険に出かけていたそうです。
そして極めつけは、小学生の柚希さんに「将来酒で失敗しないように」と日本酒を味見させていたという、今では考えられないような教育方針。
でも、これも父親なりの愛情表現だったんでしょうね。
人生経験として、いろんなことを知っておいてほしいという親心が感じられます。
こうした一見変わった体験の数々が、後に柚希さんの豊かな感性や表現力の土台になったのかもしれません。
何より、家族の時間を大切にして、一緒にいろんな経験を積ませてくれる父親の愛情は、確実に娘の心に刻まれていったはずです。
バレリーナからタカラジェンヌへ - 運命を変えた父の一言
実は柚希礼音さん、宝塚に入る前はバレリーナになることを夢見ていました。
小学3年生からバレエを始め、中学、高校とコンクールや発表会に出場し続けて、「私にはもうバレエしかない」と思うほど没頭していたんです。
高校2年生になった時、彼女はついにニューヨークのバレエシアターダンススクールへの留学を決意。
願書も取り寄せて、本格的にアメリカでバレリーナとしての道を歩もうとしていました。
ところが、ここで父親が待ったをかけます。
「バレエでは一握りの人しか食べていけない」という現実的な心配から、娘の留学計画に反対したんです。
一方で母親は娘の夢を応援してくれていたので、家族内でも意見が分かれる状況になってしまいました。
そんな中で開かれた家族会議で決まったのが、「次のコンクールで3位以内に入れなかったら宝塚を一度受ける」というルール。
結果的に3位以内に入ることができず、柚希さんは宝塚音楽学校を受験することになったんです。
でも、運命を決定づけたのは、渡米直前の柚希さんに向かって父親が放った一言でした。
「海外へ行く前に、日本で勉強することがある」
この言葉が、柚希さんの人生を180度変えることになります。
それまで宝塚のことをほとんど知らず、実際に観劇したのも受験を決めてからわずか1ヶ月前。
声楽も2ヶ月程度しか習っていない状態での挑戦でした。
今思えば、父親の判断は完全に正解でしたよね。
もしあのままバレエの道を進んでいたら、あの素晴らしい柚希礼音というタカラジェンヌは生まれなかったわけですから。
父親の現実的な視点と、娘の将来を真剣に考える愛情が、最高の結果を生んだ瞬間だったと思います。
「つかみが大事なんや」- 宝塚史に残る面接パフォーマンス
そして迎えた宝塚音楽学校の2次試験。
ここで宝塚史に残る伝説的な出来事が起こります。
面接で「特技はありますか?」と聞かれた柚希さん。
バレエのフェッテ(回転技)を披露した後、なんとレオタード姿のまま海老反りのブリッジ状態で高速歩行を始めたんです!
もう想像しただけで笑ってしまいますが、キレイに整列していた他の受験生たちもざわつくほどのインパクト。
一体なぜこんな前代未聞のパフォーマンスを?
答えは父親の教えにありました。
試験当日の朝、父親は何度も何度も柚希さんに言い聞かせていたんです。
「つかみが大事なんや」
神聖な試験会場で何をやっているんだと柚希さん自身も思ったそうですが、関西人らしい父親の「つかみが肝心」という哲学が、ここで炸裂したわけです。
結果的に、この奇想天外な特技は大成功。
1年上の先輩にまで「ブリッジで歩いた子」として知られるようになり、強烈な印象を残すことに成功しました。
父親は「つかみが肝心」な関西人として、この結果を心から喜んでいたそうです。
今でこそ笑い話として語られるこのエピソードですが、父親の「人と違うことをやってでも印象に残れ」という教えが、後の柚希さんの舞台人としての個性に大きく影響したのは間違いないでしょう。
型にはまらない自由な発想と、勇気を持って表現することの大切さを、身をもって教えてくれた出来事でした。
ラインダンスの足で娘を見分ける父の愛
宝塚に入団してからの父親の応援ぶりも、もう親バカを通り越して微笑ましいレベルでした。
特に自慢だったのが、ラインダンスで柚希さんの足を見分けられること。
「一番太いのがそう」なんて言いながら、舞台上の娘を見つけては嬉しそうにしていたそうです。
確かに、あの華やかなラインダンスの中から自分の娘を見つけられるって、相当な親の愛ですよね。
そして、芸名も毎日一生懸命考えてくれていたとか。
最終的に「柚希礼音」に決まりましたが、それまでにどれだけの候補があったのか気になります。
録画した舞台映像を見ては「うちの娘はすごい」が口癖で、もう完全に親バカ全開。
でも、こういう無条件の愛情と応援があったからこそ、柚希さんも安心して舞台に立てたんじゃないでしょうか。
面白いのは、これだけ熱心に応援していた両親が、それまで一度も宝塚の舞台を観たことがなかったということ。
つまり、宝塚がどんなものかよく分からないまま、娘の夢を全力でサポートしていたんです。
これって、純粋な親の愛以外の何物でもないですよね。
舞台の内容が分からなくても、娘が頑張っていることは分かる。
だから応援する。
そんなシンプルで温かい愛情が、柚希さんの支えになっていたに違いありません。
3年目の別れ - 天国から見守り続ける父親
しかし、幸せな時間は長くは続きませんでした。
宝塚入団から3年目、2002年頃に父親が亡くなってしまったんです。
2015年のVogue Japanのインタビューで、柚希さんは「一番悲しかった日は?」という質問に「父が亡くなった時」と答えています。
この一言からも、父親の死がどれほど大きな悲しみだったかが伝わってきます。
特に無念だったのは、父親が柚希さんのトップスター就任を見ることなく他界してしまったこと。
あれだけ娘の活躍を楽しみにしていた父親にとって、きっと心残りだったでしょうし、柚希さんにとっても「お父さんに見せてあげたかった」という思いがあったはずです。
でも、産経新聞のインタビューで柚希さんはこう語っています。
「トップになったこと、きっと大喜びしてくれたと思います」
この言葉から、父親への深い愛情と感謝の気持ちが伝わってきます。
天国の父親も、娘が6年間という長期間トップスターを務め上げた姿を見て、きっと誇らしく思っていることでしょう。
父親から教わった「つかみが大事」という精神は、その後の柚希さんの舞台人生にも確実に活かされました。
常に観客の心を掴む魅力的なパフォーマンスで多くのファンを魅了し続けたのは、父親の教えがあったからこそかもしれません。
まとめ
柚希礼音さんと父親の物語は、愛情の力がいかに人生を変えるかを教えてくれる感動的なエピソードでした。
朝5時の魚市場通いから「つかみが大事なんや」という教えまで、父親の一見変わった行動は全て娘への深い愛情の表れ。
バレリーナから宝塚への転身を促し、伝説の「ブリッジ歩き」でつかみの大切さを教えた父親の判断が、柚希さんをトップスターへと導きました。
早世した父親はその栄光を見ることはできませんでしたが、受け継がれた「つかみが大事」の精神は、今も彼女の魅力の源となっています。
親の愛は時として型破りな形で表現されますが、その思いは必ず子供の心に届き、人生の財産となるのです。
天国のお父さんも、きっと今も「うちの娘はすごい」と自慢していることでしょう。
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