姿月あさとの夫・赤坂信太郎氏との25年間!香港での出会いからバリ島生活まで

宝塚OG

元宝塚歌劇団宙組初代トップスターとして、多くの人を魅了し続けた姿月あさとさん。

華やかな舞台を離れてから25年が経った今も、彼女の人生は多くのファンの関心を集めています。

特に、2000年の寿退団のきっかけとなった結婚相手である夫との生活について、気になる方も多いのではないでしょうか。

一般男性との結婚を選んだ姿月さんは、どのような男性と人生を歩んでいるのでしょうか。

今回は、姿月あさとさんの夫・赤坂信太郎氏との出会いから現在までの歩みを、具体的なエピソードとともに詳しくご紹介します。

姿月あさとの結婚相手・赤坂信太郎氏のプロフィール

外資系旅行会社勤務のエリートサラリーマン

姿月あさとさんの夫である赤坂信太郎氏は、外資系旅行会社に勤務するエリートサラリーマンです。

結婚当時は現地駐在員として海外で活躍しており、国際的なビジネスの最前線で働いていました。

華やかな宝塚の世界とは対照的な、堅実で安定したキャリアを築いている人物として知られています。

信太郎氏は宝塚歌劇団のことを全く知らない一般男性でした。

そのため、姿月さんにとって彼は、宝塚の特殊な世界から完全に離れた、純粋な一人の女性として自分を見てくれる貴重な存在だったのでしょう。

外資系企業という国際的な環境で働く彼の視野の広さや、異文化への理解の深さも、後の長期間にわたる海外生活を共にする上で重要な要素となりました。

運命的な香港での出会い

二人の出会いは、まさに運命的なものでした。

姿月さんが宝塚現役時代に香港へ旅行に行った際、何らかのトラブルに見舞われました。

そんな困った状況の姿月さんを助けてくれたのが、当時香港で仕事をしていた信太郎氏だったのです。

この香港でのトラブル解決がきっかけとなり、二人の交際が始まりました。

宝塚のことを何も知らない信太郎氏にとって、姿月さんは単なる魅力的な日本人女性。

一方、姿月さんにとって彼は、自分の職業や立場に関係なく、一人の人間として接してくれる貴重な存在でした。

この出会いは、後に姿月さんが「普通の女性としての幸せ」を求めて宝塚を退団する大きなきっかけとなったのです。

赤坂信太郎という名前の背景

結婚後、姿月さんは本名を赤坂順子(旧姓:新保)と名乗るようになりました。

信太郎氏の詳細な家族背景については一般男性であることもあり多くは公表されていませんが、外資系企業で海外赴任を任されるだけの教育背景や国際的な感覚を持った、しっかりとした家庭環境で育った人物であることは間違いありません。

結婚生活の変遷〜バリ島生活から現在まで

新婚時代のバリ島生活(2000-2004年)

2000年7月に結婚した姿月さんと信太郎氏は、新婚生活を日本ではなく、なんとインドネシアのバリ島で始めました。

これは信太郎氏の海外赴任に同行する形でのスタートでした。

宝塚という日本の伝統芸能の世界から、一転して南国の美しい島での生活は、姿月さんにとって人生の大転換期となりました。

バリ島での4年間は、姿月さんにとって新たな自分を発見する貴重な時間でした。

宝塚時代の厳格な規律と華やかさとは全く異なる、ゆったりとした島の時間の流れの中で、彼女は一人の女性として、妻として成長していきました。

この経験があまりにも印象深かったため、後に『優しいバリ 私が「わたし」に返る島』という本まで出版しています。

バリ島での生活は、姿月さんの人生観を大きく変えました。

宝塚時代の「姿月あさと」から、一人の女性「順子」として生きる喜びを実感できた期間だったのです。

夫の仕事を支えながら、二人だけの静かな時間を過ごせたこの4年間は、夫婦の絆を深める何にも代えがたい貴重な時間となりました。

オーストラリア・ケアンズでの3年間と観光親善大使就任

バリ島での生活を終えた2004年、夫婦は今度はオーストラリアのケアンズに移住しました。

ここでも3年間という長期間を過ごすことになります。

オーストラリアでの生活は、バリ島とはまた違った文化体験をもたらしました。

特筆すべきは、姿月さんがオーストラリアでの生活に非常になじんだことです。

その証拠に、2006年の日豪交流年には観光広報親善大使に就任するほどでした。

これは、姿月さんが現地の文化や人々と深く交流し、真の意味でオーストラリア社会に溶け込んでいたことを示しています。

元宝塚トップスターが異国の地で親善大使を務めるというのは、非常に珍しいケースです。

この海外生活7年間(バリ島4年+オーストラリア3年)は、姿月さんにとって人生の財産となりました。

異なる文化の中で生活することで得た広い視野と深い人間性は、後の芸能活動にも大きな影響を与えることになります。

日本帰国後の新たなスタート

2007年4月、信太郎氏の東京転勤に伴い、夫婦はついに日本に帰国しました。

7年間の海外生活を終えて戻ってきた日本で、姿月さんは再び芸能活動を本格的に開始します。

しかし、これは宝塚時代とは全く異なる、新しいスタイルでの活動でした。

帰国後の姿月さんは、ソロアーティストとしてのコンサート活動やミュージカルへの出演など、より自由度の高い表現の場を求めていきました。

この時も、夫の理解とサポートが彼女の活動を支える大きな力となっていました。

長期間の海外生活を共に過ごし、お互いをより深く理解し合った夫婦だからこそ、姿月さんは安心して芸能活動に集中することができたのです。

現在の夫婦関係と生活スタイル

結婚から25年が経った現在、姿月さんと信太郎氏の関係は、お互いを深く理解し合った成熟した夫婦関係へと発展しています。

二人の間に子供はいませんが、それぞれの人生を大切にしながら、お互いを支え合う理想的なパートナーシップを築いています。

現在の信太郎氏の職業については詳細は公表されていませんが、姿月さんの活動を支えながら、自身のキャリアも継続していることが伺えます。

二人は夫婦それぞれが独立した個人として成長しながらも、人生のパートナーとしての絆を深め続けているのが特徴的です。

姿月あさと夫婦が築いた理想の結婚生活

一般男性との結婚を選んだ理由

宝塚のトップスターとして活躍していた姿月さんには、同じ芸能界の男性との出会いもあったことでしょう。

それにも関わらず、宝塚のことを全く知らない一般男性である信太郎氏を選んだ背景には、「普通の女性としての幸せ」への強い憧れがありました。

香港でのトラブルを助けてくれた信太郎氏の存在は、姿月さんにとって「姿月あさと」ではなく「新保順子」として愛してくれる人でした。

宝塚の特殊な環境から離れ、一人の女性として愛されたいという気持ちが、一般男性との結婚を選ぶ大きな理由となったのです。

また、信太郎氏の国際的なキャリアと広い視野も、宝塚という狭い世界に生きてきた姿月さんには新鮮で魅力的だったことでしょう。

実際に、結婚後の7年間にわたる海外生活は、姿月さんの人生を大きく豊かにしました。

過去の困難を乗り越えた夫婦の絆

長い結婚生活の中では、様々な困難もありました。

実際に、過去には布袋寅泰氏との不倫疑惑が報じられ、離婚危機が囁かれたこともありました。

また、姿月さんの宝塚時代から培われた完璧主義や潔癖症が、家庭生活に影響を与えることもあったでしょう。

宝塚時代に「髪の毛1本落ちているのも気になる」ほどの潔癖症になった姿月さんにとって、一般的な家庭生活は時として窮屈に感じられることもあったかもしれません。

しかし、そうした困難を乗り越えて現在も夫婦関係を継続していることは、二人の絆の強さと相互理解の深さを物語っています。

夫が支える姿月あさとの芸能活動

現在も精力的に芸能活動を続けている姿月さんの背後には、常に夫の理解とサポートがあります。

コンサート活動やミュージカル出演など、不定期で多忙なスケジュールを理解し、家庭を支えてくれる夫の存在は、姿月さんにとって何よりも心強いものです。

特に、7年間の海外生活を通じて培った夫婦の絆は、芸能活動における精神的な支えとなっています。

信太郎氏は、姿月さんの才能と情熱を誰よりも理解し、彼女が輝き続けることを応援し続けています。

海外生活で観光親善大使まで務めるほど現地に溶け込んだ姿月さんの適応力と、それを支えた夫の理解力。

この二人だからこそ築くことができた、お互いの夢を支え合う理想的な夫婦関係なのです。

まとめ

姿月あさとさんと夫・赤坂信太郎氏の25年間にわたる結婚生活は、香港での運命的な出会いから始まり、バリ島とオーストラリアでの海外生活、そして日本帰国後の新たなスタートまで、まさに波瀾万丈の愛の物語です。

宝塚のことを全く知らない一般男性との出会いが、姿月さんに「普通の女性としての幸せ」をもたらし、7年間の海外生活が二人の絆をより深いものにしました。

華やかな舞台から離れても変わらぬ愛情で結ばれ、お互いの夢を支え合い続ける夫婦の姿は、多くの人にとって理想的な関係性の見本と言えるでしょう。

これからも姿月さんの活動と、二人の幸せな結婚生活が続いていくことを、多くのファンが温かく見守っていることでしょう。

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